年寄り笑うな、明日の自分。
2009/04/21
認知症のすすんでいる自分の兄の面倒を見に、隣家に連泊している、姑あらんだまばーちゃんはじめおばたちがよく言う。
妹たちに見守られて、おじは、基本的には日常の生活がおくれている。
ご飯も3食おいしくいただけ、トイレも自分でいけるし、夜もわりにぐっすり。デイケアに行く週3日以外は、自宅でおだやかな日々を送っている。
ただ、周りにいる人が、誰だかわからない。
また、ふと思い立ったように、引き出しから物を出したり入れたりが、際限なく始まる。つぶやく言葉は、ねーなった(なくなった)だの、おっとられた(盗まれた)だの。
そして、「なさけねーもんじゃ」と頭をかかえる。
先日読んだ五木寛之の『人間の覚悟』(新潮新書)のなかに、
「身体的、頭脳的にもぼけが進行し、あるがごとき、なきがごときに過去と現在の記憶が入り混じって、周囲との関係が保てない状態になっていくとしても、その人間はだめになったのではなく、人間の始原のふるさとへ帰りつつあるのだと思ってはどうでしょうか。」と。
40歳代までは、死や老いは他人事だったけど、50歳代になって、おじの生きる姿を見るにつけ、「衰え」「尊厳」「自然と共に」「謙虚」「ゆるりと」「哀切」なんてことばが、私の頭のなかをぐるぐるとめぐるのだ。